第一番 誕生寺(法然上人ふたはたの御詠歌) |

第一番 誕生寺(法然上人ふたはたの御詠歌)

両幡の天下ります椋の木は世世に朽ちせぬ法の師のあと

誕生寺様」参詣を通じて
大善寺副住職 山田雅宣

法然上人と縁(ゆかり)の深い寺院『法然上人25霊場』。その中で、第一番目に定められている誕生寺様を訪ねました。
1-1法然上人は誕生寺様でお生まれになったわけでありません。法然上人がお生まれになった場所に後日、法然上人を慕う人々が寺院を建立されたことが誕生寺様の始まりなのです。

誕生寺様の山門をくぐると、正面に法然上人のお像をお祭りする御影堂、左手奥には法然上人産湯の井戸、片目川、また法然上人がお生まれになる際、どこからともなくたなびいてきた二幡の幡がかかったという椋の樹がございました。

1-2880年ほど前、ここで法然上人がお生まれになり、過ごされたのかと思うと気持ちが高ぶりました。

総本山知恩院様の七不思議と言えば、皆様もご存知かと思います。「忘れ傘」や「抜け雀」、「三方正面真向きの猫」など、一度はご覧になったことやお聞きしたことがあるのではないでしょうか。

誕生寺様にも古くから伝わる七不思議があります。
「人肌のれん木」、「逆木のいちょう」、「石佛大師」…。

1-3その中の一つを参拝した時、私の足が止まりました。それは「秦氏君 御鏡」というものです。秦氏とは言うまでもなく法然上人の母でございます。秦氏が愛用していた手鏡。

その鏡には秦氏の流した涙の跡が残っています。

争いの末、夫時国を失い、さらに忘れ形見である息子までが遠く離れた比叡山へと登ってしまう。
1-4再会の保証もないわが子との生別を悲しまれた母秦氏の涙。

その悲しみの涙をうけた鏡は輝きを失い、それ以来人を映さなくなったと伝えられています。この鏡を拝見した時、私は秦氏が残されたお歌を自然と思い出しました。

『形見とて はかなき親の とどめてしこの別れさへ またいかにせん』

(非業の死をとげた夫時国の忘れ形見である勢至丸までも、生き別れて行かなければならないとは、言葉で言い尽くせない程の悲しみであることよ)一体どれほどの悲しみのなかでこのお歌を詠まれたのか。親が子を思う気持ち。その一端ではありますが、涙の跡を残す鏡が、その悲しみの深さを物語っていました。

1-5大切な方との別れ。それはいつどこでどんな形がやってくるのか、誰にもわかりません。しかし、誰もが決して避けることのできないことであり、法然上人の時代も今も変わりません。

-誰もが救われる教えを求めて欲しい-という父の遺言を果たすために、比叡山へと登られた法然上人。

そして、四十三歳の時に「南無阿弥陀仏」とお唱えすれば、必ず西方極楽浄土へと迎えゆくぞと約束して下さった阿弥陀様の願いにすべてを委ね、浄土宗をお開きになったのです。

そして、亡き人のために南無阿弥陀仏とお唱えすれば、その方をも阿弥陀様はそのみ光で包んで下さる。そして、やがては西方極楽浄土での再会を必ず果たして下さる。辛い悲しい別れを避ける事ができない私達を静かに照らしてくださる阿弥陀様なのです。

御影堂の裏手には、法然上人御両親のお墓も建立されておりました。今でも誕生寺様では法然上人の父と母の追慕法要を一年ごと交互に勤めています。その時は、堂内いっぱいにお念仏の声が響き渡っていることでしょう。

法然上人が浄土宗をお開きになった背景には、御両親との悲しい別れがあります。今回の参詣でその悲しみの一部に、直に触れてまいりました。

その悲しみの果てに、念仏唱えたものは必ず救うぞという阿弥陀様の約束がお待ち下さっておりました。法然上人のご苦労を忘れず、阿弥陀様のぬくもりを改めて噛みしめる参詣となりました。

これからも、先だった大切な方のため、そして自分自身の為に南無阿弥陀仏のお念仏を唱え続けて参ります。