お念仏とは?
Jodo Shu- Honen Buddhism

~我が名を称えよ 阿弥陀佛の願い~

もし、心から大切だと想える相手が窮地に立たされていたとしたら、その人の為にどれほどの事が出来ますか?そして、自分自身がその立場だとしたら周りの人はどれほどの事をして下さるでしょうか?もちろん、その場合や条件によって大きく左右される事でしょう。

しかし、そのような時に何かに左右される事も無く、常に寄り添い必ず救って下さる方がいて下さったらどれほど有り難いことでしょうか。

仏教では、私達は六道という地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という迷い苦しみの世界を常に生まれ変わり死に変わりを繰り返しているこの身であると説かれます。つまり今までもずっとこの六道を巡り続け、この人間としての命が尽きた後もまた来世が待っている、次の世が待っているのです。

その行き先はどのように決まってくるのかと言いますと、良い事をすれば良い所へ、悪い事をすれば悪い所へというように行き先が定められます。

それでは命尽きた後、私達は何処に行って何をするのでしょうか?

自分はそんなに悪い事をしていないとお思いの方もいらっしゃるかもしれません。確かに日々の生活の中で法律は犯していないかもしれない。しかし、知らず知らずのうちに多くの人の心に傷を付け、大きな罪を犯している事はございませんでしょうか?

私達には自分の思うようにしたいという心があります。法では裁かれる事の無い大きな罪の原因となる煩悩という心。

お互いがお互いに自分の煩悩・欲望がある事によって、時に被害者となり、時に加害者となりながら、この苦しみ・悲しみ・争いの中で、今を生きている私達。この煩悩・欲望を全て捨てきる事の出来ないこの身なのです。とてもこのまま自分の力だけで佛となる事の出来ない私でございます。

佛の眼からしてみれば、次の世は畜生道・餓鬼道・地獄道という恐ろしい世界に落ちてしまってもおかしくない私達・・・。まさに今、窮地に立たされている私達なのではございませんでしょうか?

しかし、このような私達をお救い下さるのが阿弥陀佛でございます。

阿弥陀佛は佛となったから、たまたま我々を救える力が身についたのではないのです。

とても厳しい修行も出来ず一人で佛となる事の出来ないこんな我々を救いたいから、一人漏らさず救う為に佛様となって下さったのが阿弥陀佛なのです

阿弥陀佛は佛となられる前、まだ法蔵菩薩であった頃、

この迷い苦しみの世界を生まれ変わり死に変わりしている私達を哀れみ、どうすればあの者達を救う事が出来るのか、あの者達の為の浄土を建立したいと長い長い時間を悩まれました。

そしてついに、私達を救う為の佛となる為に世自在王佛という佛様の前で四十八の誓願、お誓いを建てられるのです。この佛となられる前に建てられた我々を救う為の四十八の願い、これを「本願」と申します。

そしてその四十八ある本願の中の第十八願これを「念仏往生の本願」と申し、最も尊い願である為「王本願」と申します。その内容は

『もし私が悟りを得たとして、もしありとあらゆる者達が、私の西方極楽浄土に生まれようと望んで、心の底から往生浄土を願い、わずか十遍でも私の名を称え、南無阿弥陀佛と称える事が出来たのならばどんな者でも必ず救うのだ。もし救う力が得られないようであるならば私は佛となりません』 この様にお誓いになって下さったのです。

更にはその願い、本願を成し遂げるために、私達に変わって我々では考えられないほどの長い長い時間の厳しい修行をなさって下さり、その願いを成し遂げられ、全ての佛様に讃えられる中、私達をお救い下さる佛様となって下さったのです、西方極楽浄土を建てて下さったのです。

そして、そのお救いの光というのは常に私達を照らし続けて下さっており、命尽きたその時には阿弥陀佛が、その阿弥陀佛自らが来迎して下さる、まさにここまでお迎えに来て下さり、

一人では苦しみの世をさまよい続けてしまう私達を包み込み、もう迷う事なく先立って往かれたお父さんお母さん、またご先祖様の待つ西方極楽浄土にお導き頂けるのです。

我々を救う為の願い、この阿弥陀佛の成し遂げられた我々を救う為のこの本願を心から信じ、必ず西方極楽浄土へ救って頂くのだと往生浄土を願い、お念仏をお称えする事が出来たのならばどんな者でも必ず西方極楽浄土へ救って頂けるのです。

毎日の生活の中で、振り返れば多くの罪を犯してしまっている私達かもしれない、今日反省してもまた明日には同じ過ちを繰り返してしまっている私達かもしれない、このまま何もせずお念仏も称えずに次の世を向かえたら何処に行ってしまうか分からないまさに窮地に立たされているこの私達。

しかし、阿弥陀佛はこの私達の為に「必ず救う」とお約束下さったのです。何があろうと常に救いの光を照らして下さり命尽きたその時には、煩悩も、苦しみも、悲しみも、争いも、妬みも一切無い、皆が讃え合い・慈しみの眼をもって・愛し合い・互いに幸せを願い合い、手をつなぎ合える西方極楽浄土へ救って下さるのです。

そして今度は私達自身が人々を救う為の佛となる為に、喜びの中で修行をさせて頂く事が叶うのです。なんと有り難い事でしょうか、この人間界での喜びなどではないのです、もう計り知れないほどの喜びの中で全ての人々の為に修行をさせて頂けるのです。

これからも悲しい時、辛く苦しい時もあるでしょう。しかし、一つ一つを受け止め、犯してしまった罪を反省し、心の涙をこれからの糧に、この先少しでも罪を犯さぬよう心がけ、後の世こそは一切悲しみ苦しみのない西方極楽浄土に往生させて頂く為に、お念仏と共に前を向いて歩んでいきましょう。

楽しい時も悲しい時も、嬉しい時も苦しい時も、あなたの称えるお念仏の一声を阿弥陀佛は常に待ち続けて下さっておりますよ。

その為に、皆様を救う為に佛様となって下さったのが阿弥陀佛なのですから。

「南無阿弥陀佛ってどういう意味?」

南無阿弥陀佛の「南無」とはインドのサンスクリット語で、お救い下さい・お助け下さい・帰依しますと意味が込められております。インドより中国に伝わった時、意味深いこの言葉に見合った漢字が無い、一つの漢字に定めてしまうと意味が偏ってしまう為、当て字で「南無」と表記されました。

南無=助け給へ

阿弥陀佛=私達を救う為に佛となって下さった大慈大悲の佛

南無阿弥陀仏=どうぞお助け下さい阿弥陀佛

どうぞお念仏をお称え下さい。

コンテンンツ
CONTENTS