二祖 聖光上人(しょうこうしょうにん)

年表
西暦 年齢
1162 1 現在の福岡県北九州市八幡西区でご誕生。生後すぐに母を亡くす。
1170 9 剃髪し出家する。
1175 14 登壇授戒。その後、白岩寺にて3年間、明星寺にて5年間学問に励む。
1183 22 比叡山に登り天台教学を学ぶ。
1190 29 比叡山を下り九州に戻る。
1191 30 油山の学頭となる。
1193 32 目の前で異母兄弟である「三明房」が突然発作を起こし生死をさまよう。
この一件により死について深く考える。
1197 36 法然上人と遇い、浄土の教えに深く帰依する。その後一旦九州に帰る。
1199 38 再び法然上人のもとへ戻る。『選択本願念仏集』を授かる。
1204 43 法然上人のもとを辞し九州に戻る。
1212 51 法然上人ご往生の知らせを受ける。
1228 67 肥後(熊本)往生院にて48日の念仏会を勤め『末代念仏授手印』を著す。
1236 75 浄土宗3祖となる良忠上人と面会する。
1238 77 2月29日ご往生。

参考文献『勅修御伝』

①はじめに

浄土宗の宗祖法然上人のお念仏の教えを正しく相伝され、浄土宗の第二祖となられたのが聖光上人であります。
九州を中心にご活躍され、九州の地を鎮西(ちんぜい)と呼んでいた事から鎮西上人などとも尊称されています。
宗祖法然上人の教えを骨身にまでしみこませて教えを受け継がれました聖光上人ですが、どのような想いで法然上人から教えを受け継がれ、後世にお伝えくださったのか、聖光上人の御生涯と共にお話しさせて頂きたいと思います。

 

②幼少期(ご誕生・母との別れ)

聖光上人は、1162年5月6日に現在の福岡県北九州市八幡西区でお生まれになられました。
現在吉祥寺というお寺のあるところが生誕の地です。
お父様は、筑前香月の城主の弟で「香月則茂(かつきのりしげ)」、お母様は「聖養(しょうよう)」と言い、現在も吉祥寺にはお二人のお墓があります。
難産であったため、お母様は聖光上人を出産したその日に亡くなられてしまいます。
生まれて間もなく訪れた母との別れ、そんな苦しみ悲しみを抱えながらお育ちになられました。

 

③出家(天台の奥義を極める)

聖光上人は、7才の時に仏門に入られ、9才の時には明星寺で剃髪され、14才の時に正式な僧侶となるため、観世音寺(福岡県太宰府市)で授戒されます。
大和の東大寺、下野の薬師寺、筑前の観世音寺は天下の三戒壇と言われていますが、その三戒壇の一つ観世音寺でしっかりと戒を授かり正式な僧侶となられたのです。

その後、香月の白岩寺(聖福寺)にて師「唯心」のもと3年間天台学を学ばれ、17才の時には再び明星寺で「常寂」を師と仰ぎ5年間過ごされます。
明星寺から36キロほど離れたところに英彦山(1,200m)がありました。
聖光上人はこの時期に、そこへの日参を誓われ3年間も日参されたと伝わっています。
片道約40キロも離れた所へ毎日通うというのはなかなか出来る事ではありません。
このように聖光上人は学問や修行にとても熱心に励まれていたのです。
そしてもっともっと深く仏教を学びたいという強い想いから、22才の時に厳しい環境である比叡山へ登られ、叡山東塔の「観叡」のもとで学び、その後、当時比叡山を代表する碩学であった「証真」のもとで教えを受け、天台宗の奥義を極められるのです。

29才の時、恩師や比叡山との別れを惜しみつつ九州に戻られます。
そして30才という若さで、九州の本山と称される油山の学頭となられます。
この油山は当時、西の天福寺に360坊、東の泉福寺に360坊も僧坊が備わっていたと伝えられています。
とても大きな仏教学校の校長先生のような指導的な立場に30才という若さで就任された聖光上人はとても秀才であったわけです。

 

④三明房(さんみょうぼう)の発作(死後の救いを求める)

学頭になられ多くの僧侶を指導され2年が経った32才の時、聖光上人の今後を大きく左右する悲しい出来事が訪れます。
その日、聖光上人は異母兄弟である「三明房」と久しぶりに再会し話をしていました。
すると突然、「三明房」が目の前で発作を起こし、もがき苦しみ、生死をさまよってしまったのです。(そのまま亡くなられたと伝えられている伝記もございます。)
それまで平然と話をしていた「三明房」が急にもがき苦しみ、その突然すぎる出来事に聖光上人は驚くばかりでありました。
そして人の命の無常を感じ、人の命はなんて儚いものなのかとその事について深く悩まれ、死後の救いについて考える大きな転機となったのです。

 

⑤法然上人との出会い(お念仏の教えに帰依し教えを受け継ぐ)

聖光上人33才の時、明星寺の僧侶の願いにより、廃塔となっていた明星寺の三重塔(一説には五重塔)再建の勧進をつとめられます。
その三重塔に納めるご本尊の仏像を求め、京都へ入られます。仏師の「康慶」に仏像制作の依頼を済ませたある日の事、法然上人の評判を耳にします。
聖光上人は、以前比叡山での師匠である「証真」からも法然上人の名は聞いたことがありました。
「智慧第一の法然房と称されているが、どれほどのお方なのであろうか?」と東山の吉水でお念仏の教えを説かれていた法然上人のもとを訪ねられるのです。
法然上人65才、聖光上人36才でありました。
対面した二人は時間を忘れ、10時間もの長い間お話をされました。
法然上人は聖光上人にいろいろな種類のお念仏について詳しく説かれ、そして浄土宗のお念仏の教えについて説かれました。

聖光上人は、法然上人の学徳の深さや人格のすばらしさに仰ぎ慕う心が深まったという事です。
比叡山で天台の奥義を極められ、30才という若さで学頭をされた聖光上人、法然上人と対面するまでは驕り高ぶる心もあったのですが、対面されお話を聞き、そんな心は消え去り法然上人の教えに深く帰依されるのです。

母とは生まれて間もなく別れの時を迎え、そんな悲しみを生まれながらにして背負ってきた聖光上人であります。
また我が子を産んで顔を見るか見ないかで亡くなってしまった母の悲しみ苦しみはどれほどのものだったのか?そんな母の気持ちを思わない日はなかったことでしょう。
また32才の時に弟の三明房が突然生死をさまよう姿を目の当たりにし、人の命はなんてはかないものなのか、今まで学問に励んできたが、それだけでは救われないのかと深く悩まれていました。
そんな悩みを抱えていた聖光上人にとって法然上人との出会い、そして法然上人の、すべての人が救われるお念仏の教えとの出会いは尊いものであったに違いありません。

「私達凡夫が迷いの世界から救われる道は、お念仏しかない。
阿弥陀様に西方極楽浄土へお救い頂くためには、お念仏をお称えする事こそが大切なのだ」とお念仏に励まれ弟子入りされ、細かく教えを受けられます。
聖光上人は、浄土の教えに帰依されてからは『阿弥陀経』を1日に6回読まれ、時間通りに六時の礼讃を行い、毎日6万遍のお念仏をお称えする事を日課とされ精進されたと伝わっています。

京都に入り3ヶ月が経ち、三重塔に納める本尊が完成したため一旦明星寺へ戻られ、開眼の法要を行い本尊を安置され、38才の時再び法然上人のもとへ入ります。

教えを受けられてから約1年後、法然上人から、「そなたは、教えを伝え保つ事が出来る器量の持ち主です。この書物を書写して後世に広めなさい」とのお言葉を受け、『選択(せんちゃく)本願(ほんがん)念仏集(ねんぶつしゅう)』を授かります。

この『選択本願念仏集』は、法然上人自らが記し残された貴重な書物で、書写する事は限られたお弟子にしか許されませんでした。
聖光上人は、「我が大師釈尊は、ただ法然上人だけである」と敬い、法然上人の教えを少しも漏らす事無く受け止められたのです。

聖光上人は法然上人のもとへ熱心に通われました。
しかし法然上人はご高齢であり、他にも訪ねて来られる方は多くいらっしゃいます。
そんな法然上人の身体を心配されたお弟子から、ほどほどにされた方が良いのではという助言を聞き、聖光上人も法然上人の身体を気遣いその翌日はお訪ねするのをやめました。
すると法然上人は「聖光はどうして来ないのか?いろいろ話したいことがあるのだが」という事をおっしゃられ、それをお使いから聞いた聖光上人は、それ程まで自分の事を想ってくださっているのかと感激し、涙を流しながらすぐに法然上人のもとへかけつけたというお話もございます。
教えをこの身にしっかりと受け止めたい聖光上人、余すことなく伝えたい法然上人、2人の想いの歯車はしっかりとかみあっていたのです。

聖光上人は法然上人から六年の間、一器の水を一器にうつすが如く、少しも漏らす事無く正しく浄土の教えを受けつがれたのです。
そして、1204年、聖光上人43才の時、法然上人の願いでもあった、多くの地にお念仏の教えを伝えるために、九州へもどられ布教に専念されます。

 

⑥法然上人ご往生・末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)(お念仏の教えを正しく残すために)

月日は流れ、1212年、聖光上人51才の時、悲しい出来事が訪れます。
師匠であった法然上人が往生されるのです。
悲しい出来事はそれだけではありませんでした。
法然上人が往生された後、法然上人の教えのとらえ方の違いで異なった教えがお弟子達の中に広まってしまうのです。
法然上人が生涯をかけお説きくださり、命をかけ布教された有り難いお念仏の教えが正しく伝わらなくなる事を悲しまれ、どうにかしなければならない、この現状をどうすればよいのかと深く悩まれます。

32才の時に弟の「三明房」が突然生死をさまよう姿を目の当たりにし、人の命はなんてはかないものなのか、今まで励んできた学問だけでは救われないのかと深く悩まれました。
そんな時に出会われました法然上人のすべての人が救われるお念仏の教え。
そしてその教えを求める自分に毎日毎日命がけでお伝えくださった法然上人。
その法然上人が亡き今、自分がこの教えを正しく後世に残さなければいけないという強い想いを抱かれていた聖光上人は、1228年、67才の時に、肥後国(熊本県)の往生院でお弟子と共に48日間のお念仏をお勤めになり、『末代念仏授手印』という書物を著されます。
法然上人の教えを詳しく正しくこの書物に記し、法然上人の教えを間違いなく後世に残してくださったのです。
この『末代念仏授手印』によって、長い間受け継がれてきた法然上人のお念仏の教えが、今日まで正しく伝わってこられたのです。
そして後世に残すべく、浄土宗三祖となられる良忠上人にあますことなく相伝されました。

1237年の10月、聖光上人は病気により体調を崩されます。
翌年の2月29日の午後2時頃お袈裟を着け、頭を北に顔を西に向けて、一字書くごとに三礼しながら書写された『阿弥陀経』を合掌している手の指に挟み、お念仏を2時間程お称えされ、最後に光明遍照と大きな声でお称えされ、次の句が出る前に眠るように77才で往生されました。

 

⑦終わりに

私たちが今日お念仏の教えを信仰させて頂けるのは、歴代の祖師様が生涯をかけて示し残してくださったからです。聖光上人は、法然上人の教えの異義邪説が横行した時、どうにかして正しく後世に伝えなければいけないという強い想いのもと、お念仏の教えをお守りくださり正しくお伝えくださいました事は本当に有り難い事です。

聖光上人のお言葉に(念死(ねんし)念仏(ねんぶつ))というお言葉があります。
死を忘れずに、自分にもいつか必ず死がおとずれるという事実をみつめ、本願を信じ、お救いくださる阿弥陀様にお頼みをするお念仏をお称えし一瞬一瞬を尊び生きていく、という意味のお言葉です。
聖光上人は、「人の命というのは儚いものであるから、出る息が入る息を待たずに死ぬ事もあり、入る息が出る息を待たずに死を迎える事もある。
だからこそ普段から阿弥陀様に救いを求めて南無阿弥陀仏と申すのだ」とおっしゃられ、毎日6万遍ものお念仏をお称えされていました。
死からは、誰も逃れる事は出来ず、その時がいつなのかという事は誰にもわかりません。
私達にとってとても恐怖な事です。しかし、私達はお念仏をお称えする事により、苦しみ悲しみの世界を迷う事無く、阿弥陀様のお救いにより次の行先をしっかりと西方極楽浄土に定めさせて頂けるのです。死の恐怖に目を瞑るのではなく、死をみつめ、多くの祖師様が相伝くださり今日まで伝えてこられたお念仏の教えを大切に、必ず一切苦しみも悲しみも無い、皆が手を取り合える西方極楽浄土へ救って頂くのだと心を定め、お念仏と共に一瞬一瞬を尊び生きて参りたいものです。

 

参考文献  『法然上人行状絵図』『決答授手印疑問鈔』『聖光と良忠-浄土宗三代の物語-』

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